日々ちょうこく

名古屋のお坊さんのブログです。文章練習も兼ねて、見た事、聞いた事、思った事を書いていきます。 たまに抹香臭い事も書きますよ。

バチってなにかな?

「お仏壇でお供えをしたものは(お花や水、食べ物)はどう処理したらいいのでしょうか」
という質問をよくいただきます。
お話を聞いていくと、大体は「食べきれず悪くなってしまう」「そのまま捨てたりしたらバチが当たらないか」という具合に話が進んでいきます。

何となく捨て辛いという気持ちもわかりますが、「お供えを上げて、手を合わせて、お供えを下げて、後処理をする」という一連の流れ全てがお供えをするということ(お恭敬)ではないでしょうか。そのまま捨てることを避けてしまうのは、大切にしているようで、「バチが当たって欲しくない」という、ある種の自分勝手な気持ちに動かされているだけかもしれません。

また、「バチ(罰)」とは誰が当てるのでしょうか。仏様は私たちにバチのような働きかけをするのでしょうか。
嫌なこと、理解できないこと、理解したくないことに理由をつけてしまっているだけではないでしょうか。
受け入れ辛いことをなんとか避けようと、いろんな言い訳や理由という蓋ばかりしていると、いつかその蓋に押さえつけられて動けなくなってしまうのではないかと思います。

精根果てるまで

昨日、法事で土日が潰れてしまっている私に代わって、妻のお父さんが娘たちをスキー場へと遊びに連れて行ってくれました。申し訳ないとは思いますが、甘えさせていただいております。

雪山は初体験の娘と息子は大はしゃぎで、2時間もしないうちに大人たちがヘトヘトになったそうです。

高いテンションのまま帰宅し、食事の後早めに寝かせましたが、案の定娘は今朝発熱をして幼稚園をお休みしました。こんなこと身に覚えがあるので、子供にありがちなことなんでしょうか。

夕方になっても熱が下がらなかったため、念のためにかかりつけの小児科にインフルエンザの検査をしてもらいに行ってきましたが、結果は陰性で一安心です。

 

娘には少し気の毒ですが、次の日に寝込むほど遊ぶことができるのも子供特有のことだなあと思いました。私や妻には到底そんなことはできません。体いっぱいで生きている証拠でしょうか。

何のためのお念仏?

法事のお勤めの時には、お経の後に必ず簡単な法話を入れるようにしています。

大体は私がお話をして、手を合わせておしまいとなりますがたまに質問や相談をされます。答えに詰まるような相談やハッキリと理解しきれていない事への質問があったりしますが、1つ1つ私の勉強になり有難いことだと思っています。
 
法事のお経の後いつものように法話をしていると、お参りに来られているおばあさんが私に話しかけてきました。
 
「私の家は浄土宗で、ことあるごとに南無阿弥陀仏とお参りしていますし、南無はたのむって意味だと聞きました。
あるご利益のあるお寺に度々お参りに行くのですが、中々いいことはありません。子や孫にいいことがあればと思っておつとめをしていますが私のこの先が不安ばっかりで、どうやってお参りすればいいかわかりません。」
ということでした。
 
確かに南無とは帰依する、たのむ(お任せする)という意味合いですが、自分の願いを叶えてもらうために南無阿弥陀仏とお念仏をするわけではないですね。
 
おばあさんに私は、
「お念仏の「たのむ」ということは、こちらからこうして欲しい、こうなって欲しいとお願いをすることではないです。阿弥陀さまの方から差し向けられている手にすがる、たのむということです。
こうして欲しい、こうなって欲しいという未来のことばかりおもっていると、現実今生きているということをないがしろにしてしまうことになりませんか?
まだわからない未来のことは阿弥陀さまにお任せして、今現在生きているということに一生懸命になる歩み方が、お念仏の教えではないですか。」
とお話しさせていただきました。
 
おばあさんはハッとされて、
「わからん先のことは仏さまにお任せするといいですね、お任せする先があるだけで気持ちが違います。」
とおしゃっていました。
 
未だ来ない未来の心配ということから離れて、今を精一杯生きることことができるということが、お念仏の「救い」ではないのかと思わせていただきました。

まさかのつながり

昨年終わりにわたしと妻の大学時代の先輩が、この度同じ組(そと読み、お寺のグループ分けのこと)の寺院に婿入りされるとお聞きし、ご挨拶も兼ねてお会いしてきました。
8年ぶりくらいに再開し、大学時代の懐かしさがこみ上げました。
振り返ってみると、父親の生まれのお寺の近くにご縁をいただいたこと、私が小さい頃にお世話になった方の下宿先にお参りさせていただいたこと、曽祖父のいたお寺の方と音楽活動をさせてもらったことなど、私とつながりが沢山あったことに驚いております。

思いはかることのできないことを「不可思議」といいますが、見えるつながりがこれ程あるのなら、さらにその先の目に見えないつながりはとてつもなく広がっていく、まさに「不可思議」のご縁の上に生きているんだということを思いました。

帰宅すると体調が思わしくなく、高熱が出ていたため、急いでインフルエンザの検査をしていただきました。
結果は陰性でした。気温差と疲労が原因でしょうか。
インフルエンザのご縁はいただかなかったかと安堵して養生しております。

「経」を一緒にあげたい

お同行さんのお宅でお月参りをする際、特に指定がなければ「仏説阿弥陀経」を読んでいます。私の場合は少し早く読んでしまうため、阿弥陀経は8〜10分、ご和讃を一首と回向文と御書で10分ほどとなっています。

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さすがに阿弥陀経をそらんじられるお同行は稀ですが、一緒に小声で読む方はチラホラおられます。普段手を抜いているわけではないですが、一緒に読まれるお同行さんのところだと余計に緊張感が出てきます。

毎月お月参りでお邪魔するあるお同行さんのところでお勤めをする前に「おっさまの読んでいるお経さんって、これでいいんですか?」と「般若心経」を出されました。やんわりと「これではなく、仏説阿弥陀経というお経さんですよ」と答えますと、阿弥陀経の経本を出してこられました。

その方は奥さんが亡くなって1年ほどで、先月一周忌を賑やかにお勤めしたところでした。奥さんのことがご縁となって、お経さんに興味が出てきたそうです。

 

仏説阿弥陀経」は、毎月お勤めする際に毎回読ませていただいていますが、案外耳に入っていっていないのかと少し不甲斐なさを感じました。思えば「これからどんなお経さんをあげます」などといった説明を全然しておりませんでしたし、聞かれもしませんでした。これのままでいいのと、気付かさせていただきました。

 

そのお同行さんと共に読めるようにと、少しゆっくり目にお経さんをあげる後ろで小声で読もうとしているのが背中に伝わってきました。

 

このまま練習して、いつか一緒にお勤めできたらと思いました。

みんなのお寺です

前回のエントリーよりだいぶ時間が経ち、年も明けてしまいました。

 

お参りと雑務に追われる日々は続いていますが、たくさんの助けを借りながらなんとか踏ん張っています。

今年の初めにささやかな住職交代の法要もなんとか無事に終えることができ、少し落ち着いてきました。

お寺で行事をする際、今まではお寺に居る人員のみで回していましたが、今回の住職交代の法要に際してはお同行さんにも積極的に手伝っていただだきました。お手伝いをお願いするときにはおっかなびっくりでしたが、皆さん快く引き受けていただけてとても有難かったです。

「迷惑だろうから」「悪いから」「どうせやっていただけないのでは」というネガティブな気持ちが出てきてしまい声をかけ辛かったですが、皆さん待ってましたと笑顔で引き受けていただき、私の勝手な心配が杞憂に終わると同時にそんなことを想像していた自分が情けないと感じました。

 

お寺の者が行事の受付、案内、接待、法要、片付けと全て賄うよりも、お同行さんと共に行事を「創り上げていく」ということはとても大切なのだと今回再確認できました。

 

「みなさんのお寺です」と、実家のお寺で父は常々お同行さんに伝えていました。私もそれを引き継ぐことができればと思っています。

 

 

ともに聞いていく。

日々の法務と事務に追われながら、お寺をまわしていく大変さを実感している毎日です。

まだまだ5日目です。他のことに考えを割いている余裕がないため、早いところペースを掴まなければなりません。

 

先日、大谷派の方々で行われている輪読会に参加させていただく機会を得ることができました。

他派の身での参加でしたが、皆さん快く受け入れてくださいました。諸事情で途中退出をしましたが、濃密な時間を過ごさせていただきました。

大学のゼミでの学びの場を思い出して、懐かしい気持ちにもなります。

一つ一つの言葉にこだわって調べて、意見を出し合うのが本当に尊いことだったと改めて実感しています。大学時代に戻れるならば戻りたくなります。

 

私の先輩僧侶は「聞法の場は必ず持て、そうすればかけがえのない友人と出会うことができる」と教えてくださったのを思い出しました。