見た目で判断してしまうこと。
お寺の近場のお参りの際は、雨でない限りは自転車を使って移動する事が殆どです。
すれ違う人には大体挨拶をしたりされたりしています。子どもには「一休さんだ!」と指を指される事もあって面白いです。
あるとき、自転車にのったおじいさんとすれ違うときに、「頭剃っているお坊さんはやっぱりいいな、ありがたみがある」という声をかけていただきました。
名古屋は真宗の寺院が多いため、有髪のお坊さんの方が多いので、そのおじいさんも真宗のお坊さんにお世話になっているのでしょうか。
頭を剃っていた方が、お坊さんっぽく見えると言う事はわかっているのですが、「人を見かけで判断してはいけない」という言葉が存在していても浸透していないのだとも思ってしまいました。
私が頭を剃っているのは、お坊さんとしての気持ちもありますが、根底にはやっぱり打算の部分があります。それは、「頭を剃っていた方が、お坊さんっぽく見えてお話も聞いてもらいやすいかもしれない」という自分勝手な思いです。
この思いの背景には、「人は見た目で判断されてしまう」という現実と、「剃髪をする」という覚悟をないがしろにしかねないこの自分勝手な思いを「捨て去る事ができない私」という原因があります。
同時に、声をかけてくれたおじいさんは「頭を剃っていない坊さんは頭を剃っている坊さんよりも劣る」という見方をしてしまっているという事だと思います。
見た目に左右された誤った見方、よこしまな見方のことを、「邪見」といい、それが広まってしまっていること世の中を「五濁悪世」の中の「見濁」と言います。
私はまさに、そんな人の生を生きているのだと思いました。