バチってなにかな?
精根果てるまで
昨日、法事で土日が潰れてしまっている私に代わって、妻のお父さんが娘たちをスキー場へと遊びに連れて行ってくれました。申し訳ないとは思いますが、甘えさせていただいております。
雪山は初体験の娘と息子は大はしゃぎで、2時間もしないうちに大人たちがヘトヘトになったそうです。
高いテンションのまま帰宅し、食事の後早めに寝かせましたが、案の定娘は今朝発熱をして幼稚園をお休みしました。こんなこと身に覚えがあるので、子供にありがちなことなんでしょうか。
夕方になっても熱が下がらなかったため、念のためにかかりつけの小児科にインフルエンザの検査をしてもらいに行ってきましたが、結果は陰性で一安心です。
娘には少し気の毒ですが、次の日に寝込むほど遊ぶことができるのも子供特有のことだなあと思いました。私や妻には到底そんなことはできません。体いっぱいで生きている証拠でしょうか。
何のためのお念仏?
法事のお勤めの時には、お経の後に必ず簡単な法話を入れるようにしています。
まさかのつながり
「経」を一緒にあげたい
お同行さんのお宅でお月参りをする際、特に指定がなければ「仏説阿弥陀経」を読んでいます。私の場合は少し早く読んでしまうため、阿弥陀経は8〜10分、ご和讃を一首と回向文と御書で10分ほどとなっています。
さすがに阿弥陀経をそらんじられるお同行は稀ですが、一緒に小声で読む方はチラホラおられます。普段手を抜いているわけではないですが、一緒に読まれるお同行さんのところだと余計に緊張感が出てきます。
毎月お月参りでお邪魔するあるお同行さんのところでお勤めをする前に「おっさまの読んでいるお経さんって、これでいいんですか?」と「般若心経」を出されました。やんわりと「これではなく、仏説阿弥陀経というお経さんですよ」と答えますと、阿弥陀経の経本を出してこられました。
その方は奥さんが亡くなって1年ほどで、先月一周忌を賑やかにお勤めしたところでした。奥さんのことがご縁となって、お経さんに興味が出てきたそうです。
「仏説阿弥陀経」は、毎月お勤めする際に毎回読ませていただいていますが、案外耳に入っていっていないのかと少し不甲斐なさを感じました。思えば「これからどんなお経さんをあげます」などといった説明を全然しておりませんでしたし、聞かれもしませんでした。これのままでいいのと、気付かさせていただきました。
そのお同行さんと共に読めるようにと、少しゆっくり目にお経さんをあげる後ろで小声で読もうとしているのが背中に伝わってきました。
このまま練習して、いつか一緒にお勤めできたらと思いました。
みんなのお寺です
前回のエントリーよりだいぶ時間が経ち、年も明けてしまいました。
お参りと雑務に追われる日々は続いていますが、たくさんの助けを借りながらなんとか踏ん張っています。
今年の初めにささやかな住職交代の法要もなんとか無事に終えることができ、少し落ち着いてきました。
お寺で行事をする際、今まではお寺に居る人員のみで回していましたが、今回の住職交代の法要に際してはお同行さんにも積極的に手伝っていただだきました。お手伝いをお願いするときにはおっかなびっくりでしたが、皆さん快く引き受けていただけてとても有難かったです。
「迷惑だろうから」「悪いから」「どうせやっていただけないのでは」というネガティブな気持ちが出てきてしまい声をかけ辛かったですが、皆さん待ってましたと笑顔で引き受けていただき、私の勝手な心配が杞憂に終わると同時にそんなことを想像していた自分が情けないと感じました。
お寺の者が行事の受付、案内、接待、法要、片付けと全て賄うよりも、お同行さんと共に行事を「創り上げていく」ということはとても大切なのだと今回再確認できました。
「みなさんのお寺です」と、実家のお寺で父は常々お同行さんに伝えていました。私もそれを引き継ぐことができればと思っています。
ともに聞いていく。
日々の法務と事務に追われながら、お寺をまわしていく大変さを実感している毎日です。
まだまだ5日目です。他のことに考えを割いている余裕がないため、早いところペースを掴まなければなりません。
先日、大谷派の方々で行われている輪読会に参加させていただく機会を得ることができました。
他派の身での参加でしたが、皆さん快く受け入れてくださいました。諸事情で途中退出をしましたが、濃密な時間を過ごさせていただきました。
大学のゼミでの学びの場を思い出して、懐かしい気持ちにもなります。
一つ一つの言葉にこだわって調べて、意見を出し合うのが本当に尊いことだったと改めて実感しています。大学時代に戻れるならば戻りたくなります。
私の先輩僧侶は「聞法の場は必ず持て、そうすればかけがえのない友人と出会うことができる」と教えてくださったのを思い出しました。