何のためのお念仏?
法事のお勤めの時には、お経の後に必ず簡単な法話を入れるようにしています。
大体は私がお話をして、手を合わせておしまいとなりますがたまに質問や相談をされます。答えに詰まるような相談やハッキリと理解しきれていない事への質問があったりしますが、1つ1つ私の勉強になり有難いことだと思っています。
法事のお経の後いつものように法話をしていると、お参りに来られているおばあさんが私に話しかけてきました。
「私の家は浄土宗で、ことあるごとに南無阿弥陀仏とお参りしていますし、南無はたのむって意味だと聞きました。
あるご利益のあるお寺に度々お参りに行くのですが、中々いいことはありません。子や孫にいいことがあればと思っておつとめをしていますが私のこの先が不安ばっかりで、どうやってお参りすればいいかわかりません。」
ということでした。
確かに南無とは帰依する、たのむ(お任せする)という意味合いですが、自分の願いを叶えてもらうために南無阿弥陀仏とお念仏をするわけではないですね。
おばあさんに私は、
「お念仏の「たのむ」ということは、こちらからこうして欲しい、こうなって欲しいとお願いをすることではないです。阿弥陀さまの方から差し向けられている手にすがる、たのむということです。
こうして欲しい、こうなって欲しいという未来のことばかりおもっていると、現実今生きているということをないがしろにしてしまうことになりませんか?
まだわからない未来のことは阿弥陀さまにお任せして、今現在生きているということに一生懸命になる歩み方が、お念仏の教えではないですか。」
とお話しさせていただきました。
おばあさんはハッとされて、
「わからん先のことは仏さまにお任せするといいですね、お任せする先があるだけで気持ちが違います。」
とおしゃっていました。
未だ来ない未来の心配ということから離れて、今を精一杯生きることことができるということが、お念仏の「救い」ではないのかと思わせていただきました。