雲や霧に覆われていても私まで届く光。
今日はお寺で月に一回の定例布教でした。気にしていた天気は始まる直前に大降りになり、終わる頃には止んでいました。ありがたい事です。
真宗では正信偈というお勤めをよくしますが、高田派では文類偈というお勤めを皆さんでします。内容はすごく似ています。
今月の先生は大谷派の方ですが、お説教の前に文類偈をお勤めする事をご存知なので、文類偈から一文を引用されて、それについてお話してくれました。
弥陀仏日普照耀 巳能雖破無明闇 貪愛瞋嫌之雲霧 常覆清浄信心天
譬猶如日月星宿 雖覆煙霞雲霧等 其雲霧下明無闇 信知超日月光益
弥陀仏の日、普く照耀す、すでによく無明の闇を破するといえども、貪愛・瞋嫌の雲霧、常に清浄信心の天に覆えり。
たとえば日月・星宿の、煙霞。雲霧等に覆わるといえども、その雲霧の下、てらして闇なきがごとし、信知するに日月の光益を超えたり。 -文類偈より-
阿弥陀様の智慧の光は、自分の姿が見えない私たちの姿を照らして、その姿を見えるようにしてくれます。そうやって自分の姿を見させていただく、自分と出偶うことが仏様の道を歩むということです。
しかし、私たちは貪り、怒り、無知という雲に視界を遮られて、智慧の光を放っている元が見えないため、照らされている事に気付いていません。
しかし、たとえ雲で覆われていても私のところまで日の光が届いているように、実は常に照らされています。
照らされていることに気付かないまま生きる事を、「辺地にとどまる」とか「胎宮にとどまる」といいます。
「辺地」とは中心でないところ、つまり人生の中心でないところを歩んでいるのに、それに気付かず中心を歩んでいると思い込んでいる事です。また、「胎宮」とはお母さんのお腹の中の事で、安全で快適ですが、自分の足で立っていない、自分の力では何もできないということです。
智慧の光に照らされている事に気付き、私という人間の隠し所のない全ての姿を見させてもらって、初めて私というもの全てを歩む事ができるのでしょう。
こんなようなことをお話しされました。
私まで続いてきたいのちが光となって、「お前はどうやっていきていくのか」「どこへむかっているのか」と常に問いかけてくれているのだと思います。
この問いに動かされて、問いによって私というものを見せてもらって、日々生きていくのが大事なんだと思いました。