9月の法語カレンダーより。
9月に入り、もう1週間以上経ってしまいました。
ぼーっと過ごしているつもりはありませんが、気付けば時間が過ぎてしまいます。
念仏は讃嘆であり懺悔である 金子大榮
讃嘆とは、仏徳をほめたたえる事、生かされている事に感動、感謝することです。そして、懺悔とは自らの罪悪を自覚して反省する事です。
仏様を信じるという信心には、2つの要素があります。これを「二種深信」といって、「機の深信」「法の深信」と言われています。
機の深信とは、「自分は罪悪を作らずに生きる事のできない存在なんだ」ということを深く自覚することです。
法の深信とは「阿弥陀様の本願の光に照らされて、浄土往生させていただく」ということを受け止めて、感謝し、ありがたく思うことです。
この、機と法は別々に存在するのではなく同時に存在する物です。
私の本当の姿というものは、私1人では私の顔を見る事ができないように、私のみの力では知る事ができません。まさに、光に照らされて鏡を見させていただくように、他者からの指摘、教えからしか窺い知る事はできないのだと思います。だから懺悔という形でしか、私を振り返る事ができないのだと思います。
懺悔する私になって、初めてこの世界の不思議、生かされているありがたさと言う事に本当に感動、感謝する事ができる。讃嘆することができるのではないでしょうか。
また、私はどんな世界に、どんな事をして生きているのか。どういったものたちに生かされているのか。その不思議さに出遇うことによって、私のおこなっていること、生きてきてやってきた事を本当に振り返る事ができるのだと思います。そうする事によって、私は私の罪深さというものを感じる事ができる。懺悔する事ができるのではないでしょうか。
念仏の中に懺悔と讃嘆、どっちが先でどっちが後ということではなく、表裏一体、同時に存在するものなのだと思います。
だから念仏とは、讃嘆であり、懺悔であるのだと思います。