出遇うことができるかが問題。
ご門徒さんの家にお月参りでお邪魔する際、もちろんお仏壇に真っ先に手を合わせます。
それから周りを見渡してみると、神棚があったり恵比寿さんの像があったり弘法大師の厨子があったりと家々によってバラエティ豊かです。
先日もあるご門徒さんの家で、タンスの上の神棚の横にある厨子を出してきて、これはなんなのか尋ねられました。
開いて確認してみると、弘法大師の像が二体入っていました。
出処を聞いてみると、おそらく亡くなったおばあさんが持っていたんではないかとのことです。聞いてみると、暇をみてはお遍路に出かけていたとのことです。
真宗であるこのご門徒さんには、もちろん阿弥陀様を信じてほしいと思っています。
しかし、信仰というのは自由です。その方が大切にされている教えをわざわざ取り上げるが如くに否定するものではないのではないかと思います。
インドから中国を経て、日本へ渡ってきた仏教、そして私まで続いていただいているお念仏の教えは、手を替え品を替え絶やさないように、伝播方法を変化させながら伝わってきたのだと思います。
信仰は変化するものだと個人的には思います。
場面場面で私たちに起こる出来事、そこを通して、確かに頷ける教えに出会えたならなにより大事なことではないかと思います。
そこに、お念仏の教えが入るようにするのが真宗のお坊さんの使命なのかと、不肖ながら思っています。