終末ケア。僧侶、医師からの視点。
このところ、「ビハーラ医療団-学びと実践-」と言う本を読んでいました。
緩和ケアを行う仏教ホスピスのことをビハーラと言います。この本では、「ビハーラ医療団」という会員のほとんどが医療関係者であり、僧籍を持っているという団体で行われた講義をまとめたものです。
医師であり僧侶である講師の方々が、日々体験している問題とその受け止め方が綴られています。
この先生方に共通するところが、患者の病気を治療するだけが真に患者を救う事ではないという認識だと感じました。
医師という仕事柄、日々の診察、治療、手術で忙殺され、患者と向き合う時間と体力と精神を削られてしまっていたそうです。
その中で尚、患者と向き合ううちに、老病死を完全に排除する事こそが使命という病院側の考え、老病死を完全に遠ざけてしまいたいという患者側の考え両方をなんとかしなければならないという思いをもたれていました。
特に印象に残ったのは、老いて終わっていく命を「残念無念なもの」として捉えてしまう土壌が病院にはあるということでした。
人が死んでしまう原因の根本は、「生きている」と言う事です。ある程度の病気が治り、長生きが比較的普通になっている現代は、「死」というものは「生」の延長線上にあるということを忘れがちになってしまっています。
だから、「死ぬ」と言う事に何か原因となる病名をつけないと気が済まなくなっているとの事で、死亡原因のところに「老衰」と書くと、それを証明しろと批判を受けることがあるそうです。(具体的な病気が無い事を証明しろという事みたいです)
そのように、死を「残念無念」なものでしか捉えられないと、「生き抜いた」という認識がなくなってしまうのだと思います。
自分の生の延長線上に死があり、そこへ到達するまで精一杯生き抜く。そして、生き抜いた命を送り出す遺族も、「残念だ、無念だ」と思うだけでなく、「よく生き抜いた、頑張ったな」と送り出せるような環境を作る。
それが坊さんの使命のひとつなのかな、と思いました。