回し向けるということ。
ご法事等でお勤めした後、よく「お坊さんにお経をあげてもらって、故人も喜んでいます」という趣旨の事を、法事等の施主さんから話される事があります。
私の天狗の鼻がニョキニョキ伸びていきそうですが、はて、本当に故人は喜んでいるのだろうかと思います。
「追善供養」という言葉があります。
これは、亡くなった方があの世で少しでもいいところへ行ってほしいという願いを込めてお勤めをするという事なんですが、真宗では「追善供養」つまり故人へ自分の功徳を回し向けるということを行いません。むしろ、亡くなった方はお浄土に帰られるため、そんな事できないという考えです。
また、例えば「追善供養」をするとして、本当に故人の事を思ってお勤めをしようとしているのでしょうか。
回り回って自分のところへ帰ってくることを期待していませんか?
功徳を回し向けた故人が、何かご褒美をくれるのではないかと思っていませんか?
「追善供養」をしなかったらたたられてしまうと思っていませんか?
こんな自分本位の考えが渦巻く私では、例えば「追善供養」をしようとしても、できるはずがありません。
お勤めをするということは、私が仏様となった故人に回し向けるのではなく、仏様から回し向けられているものを受け取るという事だと思います。
それは、本当の自分と出遇うという功徳。良いも悪いも全てひっくるめた等身大の私に気付かせていただくという功徳を回し向けてもらうのです。
これも結局は自分のためと言えてしまいます。
実は、お経をあげて喜ぶのは私自身なのでしょう。
回し向けられて受け取とることができた私を見る事ができたら、故人(仏様)は喜んでいるのかもしれません。