信じられているから信じられる。
信じるという事は、信じられているという事に驚く事である。
先日実家へ帰ったときに、お寺入り口の掲示板に掲げてあった言葉です。
信頼関係と言う事は、お互いがお互いを信じ合いながら構築していくものだと思います。
どちらか片方でも相手の事を信頼していなければ、この関係が崩れてしまいます。では、どうやってこの「信頼」を築き上げていくのでしょうか。
それは、この私が、相手に信じられているなと感じて、初めて相手を信じきることができるのだと思います。きっかけがなんであれ、相手からひとかけらの信頼をもらうことで、初めて私からひとかけらの信頼を相手に与える事ができるのだと思います。
このやり取りは、実は互いの疑心の現れだと思いませんか。「相手から信頼される」という担保が無ければ、自分から信頼をすることができないのです。
では、阿弥陀様と私はどうでしょうか。
阿弥陀様は、「この世に生きている全てのモノが、私を信じなければ仏になりません」と誓いを建てられました。はじめからの全幅の信頼です。
気付いていない、意識していないのは私だけで、その思いは私に常に働きかけてくれています。
疑心の塊である私が、阿弥陀様から既に信じられている、これに驚いて起こる事が、阿弥陀様を信じるという「信心」なのではないか。
そこから、疑心の塊である私に気づき、本当に信頼を渡せる自分に変わっていく。そんなことを、掲示板を通して伝えたかったのだと思いました。
観光客の若いカップルが立ち止まってこの言葉をじっと見ていたと、私の母が言っていました。こころに引っかかったのでしょうか。