願隆寺報恩講出仕と尊厳死について。
今日は、組内(そないと読み、同じ宗派のお寺のグループのこと)の願隆寺さんの報恩講に出仕させていただきました。
先日結婚式を挙げられ、そのお陰かわかりませんが、参詣のご門徒さんとのがっちりとしたつながりを感じました。
とてもいい雰囲気でお勤めをさせていただけました。何となく、理想的な報恩講だったなぁと思います。
その女性は、この先途方も無い苦痛と大切な人の忘却の中、死を迎えるということ知り、それでは人間の尊厳を保ってるとはいえないという考えだったそうです。
いのちは大切にしなければなりません、ましてや、賜ったいのちとしていただいているものは尚更そう考えるものだと思います。
しかし、いざ自分の目の前に、彼女と同じような問題が迫ってきたとしたら、果たして私はどうするのでしょうか。
この先治る見込みもなく、苦痛が激しくなることがわかりきっていたとしたら、それでも生きていたいと思えるのでしょうか。
病気と向き合っていくのだとしたら、自分だけでなく家族や周りの人に大きな負担がかかってきます、それでも生きていたいと思えるのでしょうか。
当事者ではない私たちは、想像することしかできせん。この突きつけられた問題はには正しい答えというものはないと思います。
それでも、問われている以上は、考えねばならないことだと思います。