そのときそのとき新発心。
僧侶界隈では有名人の、松本紹圭さんの記事を読みました。
お寺は二階建て、宗派は出身地(松本紹圭) | お寺の未来 | 彼岸寺
私は、お寺で生まれ、お寺の仕事をすることがお寺で生まれた者の仕事だと教わって育てていただいてきました。
次男で生まれて、実家のお寺の後継ぎにはなれないということは理解をしていましたが、いつか自分もお寺で仕事をしたいと心の奥底にはありました。幸いにもご縁に恵まれて、今のお寺に入らせていただきました。
お寺での僧侶としての仕事をこなしながら、改めて自分はなぜ僧侶になりたかったかを思い返してみると、「お寺で生まれたから」「お寺の子として育ったから」「父と祖父が僧侶だったから」と、発心(仏道を歩むと決めたきっかけ)としては到底上等なものではないという思い込みが、常にコンプレックスのように心に張り付いていました。
「お寺で生まれたから」「お寺の子として育ったから」「父と祖父が僧侶だったから」というきっかけは、実は大きな仏縁であったと、このところようやく思えるようになってきています。
記事の中の「だって、生まれちゃったんだもん」という項目は、私にストンと落ちてきました。
これから先、後から後から「あれは私のきっかけ(発心)だったのか」と気づいていくのだと思います。
得度を受けたばかりの、希望に満ちた若い僧侶のことを「新発心(しんぽっち)」と呼びます。私のきっかけを振り返って、新たに歩む決意を持つことができたなら、その時はまた新発心として歩み始めることができるのだと思いました。
その時その時、新たに私が生まれていくということなのでしょうか。