悼みは本人の大切なもの。
葬儀の件数が例年に比べて明らかに増えています。
季節や人口バランスなど、様々な要因があるかと思いますが、これから先は増える一方という予測もあります。葬儀の形が多様化、簡略化していく中で、どのように死という大切なことと出遇っていくのか。大切な人をどのように送り、受け止めるのか。答えのない問いの中でできることをしなければなりません。
先日、幼い子供を残してお浄土に行かれた若いお母さんの一周忌をお勤めさせていただきました。私が直接葬儀をした方ではありませんが、大方のお話は住職から聞いております。
施主の旦那さんは私と同じくらいの年齢でした。
無事お勤めが終わり、短い法話を旦那さんと子供さんの目を見ながら話し始めました。
「いのちは確かに続いている、おもいは確かに残っている。お母さんの姿はなくなったが、お母さんの歩んだ姿に照らされて、皆さんの道は続いていくのです。
故人は阿弥陀様の元へ往生されて、私たちを照らす光となられました。ご縁をいただいたすべてが光となって私たちを照らし、歩みを導いてくれる。その働きの大元の阿弥陀様が「なんまんだぶつ」という称えやすい言葉となって、私たちまで続いてきてくれたんです。
「なんまんだぶつ」の言葉とともに、称える私たちとともに、確かに故人はおられます。」
そんなお話をさせていただきました。
遺された方々の悲しみ、苦しみというものと同じものを感じることはできません。想像することすら難しいことです。
私にできることはお話を聞くことくらいしかありません。立ち直ることができるのはご本人の力です。
そのことを心に留めて、またがんばろうと思いました。