小さな小さな仏様たち。
妻のお腹が大きくなってきているので、家事をよく手伝っています。
重い米びつを持ち上げるのもちょっとやめた方がいい気がするため、米びつを出すついでにお米を研ぐのも私の仕事となりつつあります。
お米を研いでいると、ふと小さい頃に父から聞いたお話を思い出しました。
ある子どもが家族で食事をしているときに、よくお茶碗に米粒をたくさん残したまま食べ終わろうとしました。その子どものおじいさんは、「お米一粒一粒に仏様がいるから、残してはいけない」と言って聞かせ、毎回残さず食べるようにさせていました。
その子どもが学校の理科の授業で、顕微鏡を使う時間がありました。子どもは、「顕微鏡で米粒を見れば、きっと金ぴかに輝く仏様が見えるに違いない!」とわくわくしながら米粒を顕微鏡で覗いてみました。しかし、そこに見えるのはお米の表面だけでした。
がっかりした子どもは、おじいちゃんに「嘘つき!仏様なんていない!」と怒りました。するとおじいさんは、「いや、確かに仏様はいる。その仏様は目に見えないだけで、お前に食べられる事お前のいのちを支えてくれているんだよ。」といいました。
おじいさんの言う仏様とは何なのでしょうか。
私の体を維持するためには、食べなければなりません。食べるという事は、他のいのちをいただくという事です。いのちとは、何も動物だけに限る訳ではなく、植物も当然いのちです。
このいのちたちは、私の中に入る事で、私を生かしてくれるはたらきとなります。私の中で「生きよ、生きよ」と願ってくれます。このはたらきも、いわゆる「他力」なのでしょうか。
私を生かすためにその身を捧げてくれたいのちたち。これらも仏様と見て、ありがとうと受け取らせていただく言葉が、「いただきます」「ごちそうさま」なのだと思います。
お米一粒、お肉ひときれ、大事にしなければならないですね。