日々ちょうこく

名古屋のお坊さんのブログです。文章練習も兼ねて、見た事、聞いた事、思った事を書いていきます。 たまに抹香臭い事も書きますよ。

わかりやすくしていただいております。

昨日の噴火の被害が徐々に報道で明らかになってきました。

現時点で死者も数名でてきていますし、まだ助け出されていない方もたくさんおられるみたいです。

早いところ落ち着いてくれたらと願うばかりです。

 

生命誕生の瞬間に出会ったり、いのちが亡くなるときに出会ったりするときに、私たちは自然の力というものの不思議さをまざまざと見せつけられます。

私たちを生かし、育み、時には奪う自然の流れとか、自然から私たちに向けられている願いというものを、自然の法則とか、真理などと言ったりします。

仏教的に言えば、「ご縁」など聞いた事あると思いますが、こういったものを「法身の如来」と言います。これは、本来は私たちには影も形も見る事ができないものです。

仏教では、「惟一絶対で姿形をこえた真理」を「真如、一如、法身、実相、法性、仏性、如来」などといいます。

 

私がお参りさせていただくお仏壇には、ご本尊として阿弥陀仏が真ん中におられます。各家々によって木像、絵像、名号軸(南無阿弥陀仏と書かれたもの)とだいたいこの3種類のうちどれかが安置されています。

そのご本尊の裏には、「方便法身尊像」とか「方便法身尊形」と書いてあります。これは、本来形の無い「法身の如来」であるものが、阿弥陀如来という私たちにわかりやすい形をとって、目の前にいてくださるという事です。

「方便」とは、「救うための方法」という意味があり、「法身の如来」が阿弥陀如来として私たちの前に姿を見せてくださる事を「有相方便」といいます。(「有相方便」から誤った意味の「嘘も方便」という言葉が生まれてしまったと聞いております。)

 

つまり、方便の仏様という形(阿弥陀仏)を取った法身(真理)の像というものが、お仏壇の中に入っているのです。

自分を生かし、育み、お浄土へ送るはたらきを、どうしても見る事ができないのが凡夫である我が身です。なんとかわかるように、感じられるように苦労をして、阿弥陀仏の形をしてくださったという仏教の流れは、お念仏となって私にとどいています。

 

自然の猛威をニュースで見ながら、他人事に思っている私です。

しかし、私にはたらく仏様は、自分もこの自然の流れの一部なんだぞということを何度でも教えてくれているのだと思いました。