12月の法語カレンダーより。
総選挙まであと4日となりました。
車を運転していると、あちらこちらで選挙カーが候補者の名前を連呼しています。結構な音量で住宅街の中を走っています。名前をまずは覚えていただかないといけないのはわかりますが、小さい赤ん坊がいる家にとっては、その大音量で赤ん坊が起きてしまったりします。「子育てのしやすい社会」と訴える声で、せっかく寝た赤ん坊が起きてしまう現実。難しいところです。
永遠の拠り所を与えてくださるのが、南無阿弥陀仏の生活である 坂東性純
宗教とは、生きるための「宗」を教えていただくものだと教わりました。「宗(むね)」とは「おおもと、中心となるもの、尊ぶべきもの」という意味があります。
生きる上でのおおもと、中心となるものとは、私の立脚地と言い換えることができるかと思います。
私たちは常日頃どんなところに立脚して生きているのでしょうか。仕事、立場、お金、家庭、故郷など様々あると思います。
煩悩から離れられない私たちが考える立脚地は、即物的で、ものすごく不安定なのだと思います。
「南無阿弥陀仏の生活」とは、私まで伝わってきたいのちの流れに寄ったものです。それは、煩悩から離れられず、悩み、苦しむ私を、それでも離さず諦めず捨てない「生きよ、生きよ、それでも生きよ」という声に支えられる生き方なのだと思います。
即物的な立脚地ではなく、私まで伝わってきた歴史的いのちに寄った場に立たせていただく。それが、永遠の拠り所なのだと、私は思います。